一覧へ戻る
表 紙 説 明
秋元書房ジュニアシリーズ223
書 名:涙で顔を洗おう
著 者:高谷玲子
初 版:S40.03.10
備 考:文庫版あり  秋元文庫ファニーシリーズB16
昭和49年1月「マリコ」の題でNHK少年ドラマシリーズとして放映された「静かに自習せよ」の続編
NHK少年ドラマシリーズについては にのPさんのHP(少年ドラマ伝説) にどうぞ
中学3年の時に『静かに自習せよ』を書いた天才少女の著者が、その後ガンに倒れ、入院、手術、退院、再発という悲運に見舞われながらも、病床から書きつづった長篇小説
 私は女性であるのに「坊や」と呼ばれる。これは赤ん坊≠フ坊やからきたともやんちゃ坊や≠フ坊やからきたとも言われる。いささかチビであることと、頭のはたらきが子供っぽいことは事実だ。
 家にはパパもママもいない。ママは子供のころ死んだが、パパは出張が多くてときどきしか帰ってこない。お手伝いのフェリシテというれっきとした日本女性と私の二人ぐらしのようなものである。
 ところが最近、パパは誰かと再婚するらしい。古来、ママ母はママ子をいじめるのに相場はきまっている。それに、そうなれば、フェリシテはくびになるにちがいない。私はだんじて反対した。どうしてもそうなるのなら、とてもいじ悪なママ子になってやろうと決心した。
 学校では、いよいよ3年の三学期を向えた。各科の宿題は、まさに殺人的である。秀才の委員長白石君の発案で、宿題カンニング作戦は開始された。美人の転校生中条みどりも一枚加わり、細工は上々と見えたが、さっそく先生にしぼられる破目におちいってしまう……。
      登 場 人 物
坊や ―─ 本名、相川マリコ。中学3年生だが、1年生とまちがえられるようなチビ。
コショウちゃん ― 本名、中条みどり。美人で詩人、頭がよくてぴりりとからい。
白石雅也 ─― クラス委員長。皮肉屋で秀才。
将軍 ─― 本名、北見哲夫。隣りのクラスの秀才で生徒会長。
三木女史 ―― 本名、三木律子。スピーカーの申し子ともいわれるほどの口達者。
三好君 ─― 白石君の親友。
市倉の若旦那 ― 一見秀才に見えるが、成績はいつも低空飛行。
花千 ─― 本名、花村千太郎。不良の親分と自他ともにゆるしているが、根は純情。
元祖 ─― 3年の主任。ガリ勉の元祖といわれるだけあってうるさい先生。
フェリシテ ― 本名、生島エミ。相川家のお手伝いさん。
有閑荘の老夫婦 ― マリコの祖父母。おじいさんは元柔道家。今は道場を人にゆずり、老夫婦でつつましく暮している。
高谷玲子(たかや・れいこ)さんのこと
昭和14(1939)年3月生まれ。東京都立上野高校荒川分校卒業。
処女作「静かに自習せよ」は中学3年から20歳にかけて少しずつ書き上げたもの。その後ガンに冒されて入院、病院生活をしながらも「涙で顔を洗おう」と「悲しからずや」を執筆。いずれも秋元書房刊。昭和40(1965)年2月15日、肺ガンで死去。
尚、この「涙で顔を洗おう」は「静かに自習せよ」の続編である。
高谷玲子さんの霊よ安かれ
                   昭和40年3月編集部N
 高谷玲子さんは、昭和14年東京都葛飾区の生れ、5人姉弟の次女です。子供の頃から非常に頭がよく、中学、高校時代は、姉の深雪さんと高谷の秀才姉妹といわれ評判だったそうです。
 中学は葛飾区立双葉中学。ここで伊藤先生というよき師を得たこともあって、特に作文に優秀な成績をおさめ、各種の作文コンクールに入選したりしました。
 彼女が小説を書き出したのもその頃からで、3年生の12月から20才の10月にかけて少しずつ書き上げていった「静かに自習せよ」が最初の作です。「静かに自習せよ」は、妹の光子さんがジュニア・シリーズの愛読者だったという関係から秋元書房に持参したのですが、一般に持ち込み原稿というのは、十に一篇ぐらいしか優秀作にめぐりあえないもので、私は、それほど期待せずに受け取ったことを覚えております。
 しかし、読み始めてみて、それが大変な傑作であることに驚かされました。軽快な文章でウィットに富み、一ヵ所として平凡な表現をしたところはありません。私は一気に最後まで読み通してしまいました。
 この本は昭和37年10月に刊行されましたが、はたして読者の評判もよく、飛ぶように売れました。玲子さんのところにも各地からファンレターが殺到し、中には沖縄の方からも手紙が来たと聞いております。
 だが、玲子さんを死にいたらしめたガンの病巣は、実は、この頃から彼女の体をむしばみ始めていたのです。その年、玲子さんは乳ガンの宣告を受け、入院手術しました。
 乳ガンの手術をした人は、ほとんど全快してますので、退院後、本が刊行されたとき、初めてお会いした際、私は彼女の病気については気にもかけませんでした。それよりも、次の作品に期待していましたので、その構想のことばかり話しあったりしました。
 翌々年、玲子さんは第二作「涙で顔を洗おう」を書き上げました。その頃、別の企画に追い回されていた私は、送ってもらった原稿を読む暇がなく、ロッカーに入れたまま暮れを迎えてしまいました。
 暮れに妹さんからの電話で、ガンが再発したことを知らされました。今度は左の乳ガンになり、部分手術をしたが、肺にも転移したというのです。
 私は正月休みにこの原稿を読みました。期待通り、前作にまさる傑作です。私はすぐに本を刊行することを速達で知らせました。この葉書は病床の玲子さんをとても力づけた、ということです。
 休みあけと同時に、編集部総員でこの本の制作にとりかかりました。すでに3月までの企画はきまって進行していましたが、一時ストップしてこの本を入れかえ刊行することにしました。
 割付、表紙撮影、等の編集制作と玲子さんの病気の競争が始まったのです。
 2月1日、ほぼ刊行の目ぼしがついたので、私は玲子さんを見舞に行きました。彼女はもちろん、ガンが肺に転移していることは知りません。セキが止まらないのは、気管支炎のためだと思っているのです。帰りぎわに、「本ができるころは、病気もなおっているでしょうから、みんなでお祝いしましょう」と私が言ったとき、お母さんがふすまのかげでおえつをこらえておられました。
 2週間たちました。いよいよ明日、表紙の見本ができるという日、彼女は危とく状態におちいりました。
 私がかけつけたとき、玲子さんは、お父さんに子供のように抱かれていました。本がいつできるか、とても気にしているというのです。息づかいは荒いが、意識はたしかです。「明日、見本ができるんだよ」とお父さんが耳もとで言われると、はっきりうなずきます。明日できるのは見本ではなく、表紙だけの見本刷なのです。
 私は病室をでると、夕方の町を走りました。死ぬ前に一目、本を見せるすべはないかと考えました。
 私は社に帰ると、表紙の印刷所に電話し、明日の見本刷を、今晩どんなに遅くなっても刷れないかとたのみました。もはや6時半をまわっています。工員のほとんどは帰っているはずですから不可能かもしれません。しかし、事情を聞いた印刷所の部長は、何とかしましょうと引きうけてくれたのです。
 9時30分、刷りあがった見本刷をもって病院まで車を飛ばしました。その見本刷をほかの本にかぶせ、本ができたといって見せて上げようと思ったからです。だが、病院にまで行く必要はありませんでした。玲子さんの家の前までくると、あかあかと電気がともって人のけはいがします。
「姉は、さっきなくなりました」
 私を見て、妹さんがつぶやきました。私は何にも言えずに、表紙をにぎりしめたまま立っていました。
 玲子さんがなくなられたのは午後6時48分、私が病室を出てから1時間後です。その頃、私は印刷所からの電話を待って受話器の前でいらいらしていました。と、電話がかかってきたので私は受話器を取りましたが、なぜかぷつりと切れてしまったのです。何かの故障かもしれませんが、そうでないような気がしてならないのです。

 私の努力のいたらなさで生前に本をお見せできなかったことを、玲子さんの霊に深くおわびいたします。また、表紙の見本刷に無理をしてくださった斎藤印刷所の方にお礼申し上げます。

 * 惜しまれる才能 *
 ジュニア・シリーズの作者は、芥川賞や直木賞をとった方とか、そうでなくても、作家として有名な方が多いのですが、その中にまじって異色的な存在の人が数人います。
 それは、「私」の西川澄子さん、「友情」の横島さくら子さん、「ガリ勉派とサボリ屋」の多田ひろみさんとこの高谷玲子さんです。いずれもティーン・エイジャーの時に書いた小説が本になった方たちです。
 読者の皆さんは、小説を書くようなこれらの人たちは、さぞかしでしゃばりで、才気かんぱつなお嬢さんたちだろうと想像されるでしょうが、実はさにあらず。大変内気で、口数が少く、お父さんやお母さん、あるいは妹さんがつきそいで、編集部にくるところまで共通しているのです。
 高谷さんの場合も原稿を届けたり、催促の電話をくれたり、玲子さんの病気のぐあいなどを知らせてくださったのは、マネージャーがわりの妹の光子さん(高三)でした。
 それにしても、これから、マリコの高校卒業まで書くといわれていた玲子さんが、わずか25才で亡くなられたのは、惜しまれてなりません。
 玲子さんの遺品の中に、次の小説の下書きの一部があったとききます。光子さんの手によって整理され、皆様にお贈りできるようになれば、と思っております。