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表 紙 説 明
秋元書房ジュニアシリーズ91
書 名:野菊をつみて
原 題:Meine Tochter Lisbeth
著 者:ベルテ・ブラット
訳 者:石丸静雄
初 版:S34.11.15
備 考:翻訳権所有
   『 野 菊 を つ み て 』 に つ い て
  これは1950年に発表されたノルウェーの小説で、ノルウェー国内だかりでなく、スウェーデン、デンマーク、オランダで飜訳され、ベストセラーとなり、ドイツではものすごい評判をよび、約30種の新聞が競って連載されたほどでした。そして、1954年にはドイツ最優秀少女小説賞を受賞しました。
 この小説は、いわゆる「女性のショッキング・エージ」に近づきつつある一人の娘の、告白的な一人称小説の形式をとっておりますが、作者はこのなかで、現代の大きな一つの課題、つまり早く親を失った子供や娘の、この社会における生き方という大きな問題と真剣に取り組んで、実験をみせてくれています。23才の孤独な娘ステフィと7才のリースベットが、その中心人物なのですけれど、このふたりの運命的なふれあいは、読む者の誰もの胸にも、しみじみと訴えるものがあるでしょう。
 ある日、片親の父につれられたリースベットの、幼い、いじらしい姿を見た瞬間に、おそらくは全女性の胸深くまどろんでいる「母」としての愛が、娘のステフィにもめざめました。一旦、この愛にめざめた女性がどんなに強いか、それをこの小説は、みごとに示してくれています。
    主 要 人 物
ステフィ・サーゲン ―― 「私」として登場するこの作のヒロイン。オスロのアパートに住んで、翻訳の仕事で自活する孤独な23才の娘だが、北欧の女性らしいこまやかな愛情の持ち主である。
リースベット・イェンセン ―― 片親の父と暮らしている、非常におませな7才の可憐な少女。のちに、ステフィ・サーゲンの養女となる。
ゲオルク・サーゲン ―― ステフィの遠縁の男で、リースベットの実父。30才。オスロの金物商に勤めるうち、肺結核で死亡する。
カール・レーヴォルド ― 海港都市ベルゲンに住む裕福な海産物輸出業者で、妻子と離婚手続き中。ステフィの求婚者。虚栄心が高く、子供に理解がない。
ヘミング・スカール ―― 国家試験を受けて 教師になろうとしている苦学生だが、性質明朗で、子供に深い理解がある。
アンネ・グレーテ ――― ステフィの一番親しいいとこで、よき相談相手でもある。
ク  ヌ  ー ト ―――― アンネの愛人で、またヘミング・スカールの親友。
マリア・エリーザベット・ブレダールリースベットのやさしい祖母で未亡人だが、娘とふたりで細々とくらしている。ゲオルク・サーゲンとは義母の間柄である。
   巻 末 解 説 よ り
 こんど初めて秋元書房から発行されることになった、この『野菊をつみて』(原題『私の娘リースベット』Mindatter Lisbet)の拙訳は、1950年の作で、発表当時内外に異常な反響をよび起し、ノルウェー国内でも、たちまち55000部を売りつくしたといわれています。55000部ときいても、わが国の読者の皆さんはそれほど驚かれないかもしれませんが、総人口わずか300万そこそこのノルウェー国内のことを想像されたら、およそ、この本の読まれた範囲がおわかりになるでしょう。
 その後、お隣りのスウェーデンやオランダでも訳本が出ましたが、ドイツでは、約30種の新聞がこれを転載して、一般読者の絶賛を浴びたそうです。そしてこの小説は、ミュンヘンの少女小説専門の出版社として有名な、フランツ・シュナイダー書房の「1954年度最優秀少女小説賞」を受けました。
 ベルテ・ブラットさんは、この小説の続編として、1952年に『十七才の少女』を発表しました。これは『野菊をつみて』で7才だったリースベットが、17才になって、思春期の悩みと義父母のあいだに立ちながら、はじめて人生の試練をうける最も興味ぶかい前後のことを書いた力作で、期待が持たれます。さらに1954年に、そのまた続編ともみられる『二つの幸福な夏』を発表しておりますが、訳者はまだ読むところまでいっておりませんので、内容にはふれないことにします。
 このリースベットのシリーズのほかに、少女アンネのシリーズ物を3冊発表しておりますが、これも大変な好評を受けました。それは1954年の『アンネ』、55年の『アンネとイエス』、57年の『無二の友アンネ』で、このほか、新聞小説やコントや旅行記なども発表し、またラジオの講演などにもたびたび出たりして、めざましい活躍をつづけております。
 作者のことはこのくらいにして、直接この『野菊をつみて』について、訳者の気づいたことを少し述べさせてもらいましょう。
 この小説は、いわゆる「女性のショッキング・エージ」に近づきつつある一人の娘の、告白的な一人称小説の形式をとっておりますが、この形で書くほうが作者として何かと都合がよかったのでしょう。もちろん自叙伝ではありません。
 作者はこのなかで、現代の大きな一つの課題、つまり早く親を失った子供や娘の、この社会における生き方という大きな問題と真剣に取り組んで、実験をみせてくれています。23才の孤独な娘ステフィと7才のリースベットが、その中心人物なのですけれど、このふたりの運命的なふれあいには、直接児童の教育にたずさわる先生がたや、世の若いお母さんがたの胸にも、しみじみと訴えるものがありはしないでしょうか。
 ある日、片親の父につれられたリースベットの、幼い、いじらしい姿を見た瞬間に、おそらくは全女性の胸深くまどろんでいる「母」としての愛が、娘のステフィにもめざめました。一旦、この愛にめざめた女性がどんなに強いか、それをこの小説は、みごとに示してくれています。
 孤独な未婚の女性の生き方にも色々ありましょうけれど、このステフィの場合は、まだ「母」にならない前から、すでに「母」として人生をふみだし、おしみなく与えてやまぬ泉のような愛情一路に生きた点で、もちろん典型的なものになるでしょう。
 そして、このような娘が思わずもらす、なんといっても人生は美しい、という感嘆の言葉には、さまざまの悩み苦しみを生き抜いてきた女性の、いつわりのない実感がこもっております。これは同時に、作者自身の人生観の告白とみてもよろしいかも知れません。
訳   者