表 紙 | 説 明 | ||||||||||||||||||||||||
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秋元文庫昔ばなし・シリーズ F1 |
書 名:テレビまんが物語一休さん(1) 編 者:テレピまんが制作スタッフ カバー・さし絵:ジュニオ・プロ 初 版:S52.03.25 備 考: | ||||||||||||||||||||||||
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一休さん≠ノついて 巻頭解説より 一休さん≠アと一休禅師は、後小松天皇の皇子として、明徳5年(1394年)正月元旦に、京都・洛西の民家で生まれ、幼名を千菊丸(菊麻呂)といいました。 その時代は、朝廷が南朝、北朝と二つに分かれていて、千菊丸の生母・伊予の局は南朝の武士の娘であったため、北朝の天皇をいただく足利幕府は、伊予の局を宮中から追放してしまいました。 さらに幕府は、千菊丸が成人したのち、足利幕府に反逆することを恐れ、千菊丸を母の手からもぎ離して、京都の安国寺に預け、お坊さんの修行をさせたのでした。 千菊丸は生まれつきたいへん利発な子供で、その知恵の鋭さに当時の人たちは舌をまいたということです。この頃は名前を周建と称していました。 22才のとき、近江(今の滋賀県)堅田の禅興庵で聖僧と聞こえた華叟禅師の弟子となって修行をつみ、ここで一休という名前をもらったのです。 行を極めた一休禅師は、27才のとき、当時天下第一の名刹といわれた京都大徳寺の住職となることを乞われましたが、それをふり捨てて行雲流水(修行の旅)に出たのでした。 一休禅師が、常に布教と衆生の済度に尽くし、ようやく大徳寺の住職となることを承諾したのは、齢81才になってからのことでした。 まもなく、応仁の乱で焼かれた大徳寺の再建をなしとげ、文明13年(1481年)11月21日、薪村の酬恩庵で、その88年の清らかな生涯を閉じました。 |