表 紙 | 説 明 | ||
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秋元文庫映画化シリーズD1 |
書 名:芽ばえ 原 題:GUENDALINA 著 者:ヴァレリオ・ズルリーニ 訳 者:若城希伊子 初 版:S48.10.30 備 考:B6判あり 秋元書房ジュニア・シリーズ47 映画「芽ばえ」(1958年・イタリア)の原作 主演:ジャクリーヌ・ササール 監督:アルベルト・ラットアーダ 2005(平成17)年5月29日、00:40 NHK BS2ミッドナイト映画劇場にて放映 | ||
グェンダリーナとオーベルダンは、ピサの斜塔へ遊びに行った。秋の陽ざしをうけたピサの街は、遠くまで見渡せた。そよ風が、彼らの頭上をほほ笑んで通りすぎ、空も、河も、建物も、すべてが、二人のためにだけあるようなひとときだった。この日の思い出は、二人の胸にいつまでも焼きつけられた。 愛の芽ばえを描いた傑作! | |||
カバー折り返しに掲載の映画のシーンより(イタリフィルム社*ニッポンシネマ共同配給) | |||
主 要 人 物 グェンダリーナ ―― この物語の主人公。17才のミラノの少女。シーズンも終わりに近いイタリヤ西北海岸ヴィアレッジョの別荘に滞在中。 オーベルダン ――― ヴィアレッジョの街の少年。この街の高等学校の学生。やがてグェンダリーナと深く知るようになる。 グイド・レダエッリ ― グェンダリーナの父。実業家で、多くミラノにいる。 フランチェスカ・レダエッリ ― グェンダリーナの母。夫との間に離婚訴訟を起こそうとしている。 パンカーニ夫人 ―― オーベルダンの母。 イタリヤ ――――― オーベルダンの妹。 アッティリヤ ――― レダエッリ家の女中。 ジャンルーカ ――― グェンダリーナの避暑友達。海軍兵学校生。 マ ノ ロ ――― オーベルダンの友人。 |
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巻 末 訳 者 解 説 よ り(抜粋) 芽ばえの頃=c…その名にふさわしいのびやかな青春。 それはまた、人生の微妙さに、初めて驚きの眼をみはる時でもあります。人はときどき突然、自分がいまこの世に生きていることに不思議を感じることがあります。1年の季節の変化の微妙さに、ふと心をとめて感じ入ることはないでしょうか。そして青春とは、また、いままで無心にすごしてきたこの世の中の、あらゆる美しさや哀しさを、改めてその胸に、ひしと知る時なのではないでしょうか。 シーズンをすぎたイタリヤ西北海岸の避暑地ヴィアレッジョの街で、ミラノから避暑に来ている少女グェンダリーナは、この街のオーベルダンという誠実な少年に会います。不仲な両親をもったブルジョワの一人娘と、夏休みもアルバイトをするこの街の少年とは、さまざまな生活の出会いの中で、だんだんと離れることの出来ないお互いの心を知るようになります。 別にとりたてて、どうこう、という筋はないのです。二人の心のつながりにも、何がどうだからという特別な深い意味は一つもありません。ただ、誰もいないものさびしい海岸の強い太陽の下で、二人は知りあい、そして素直に、ごく自然にお互いに語りかけるだけなのです。グェンダリーナは彼女らしく、新鮮なその姿と言葉で……。オーベルダンは彼らしく誠実な正直さで、その少女の発する一つ一つの表現をうけとめてゆく……。ただ、それだけのことなのです。たびたびのふれあいの中で、二人はそうしてお互いの心のうちに芽生えてめく微妙なかすかな気持ちの変化に、だんだんと目ざめてゆきます。……やがて、何時の間にか、二人はくちづけをするようにまでなるのですが、……グェンダリーナの両親の時ならぬ和解が、若い人たちの別れを強いることになってしまいます。 大人の身勝手な喧嘩や仲直りが清純な二人の心のつながりを、何の容赦もなくこわしてゆくのですが、それが大人達が瞬時に味わう子供への郷愁によってなされるのも、この物語が大人達へ対する一つの皮肉のようにもとられます。 恋を知ること。……平凡で退屈な長い人生の途上で、人がこれほどこの世の秘密に近づく時はないと言われます。恋する人は美しく、そしてさまざまの歓びと哀しさとに、人生の苦悩を知るのだと言います。 愛と哀しみと、そして僅かな疑いと瞬時の怒り……。それらは、グェンダリーナの両親の間にみられるような、大人の世界のそれのように、激しく露骨で醜いものでは決してありません。が、しかし、若い人たちの胸にはその時のひとつひとつが、あざやかな驚きになって、真っ白な心のページの第1行目に記されてゆくのです。そしてそこから、やがて人生の永遠の問題である、愛と孤独の苦しみについても考えられる時が生れてくるのでしょう。 グェンダリーナという少女の素晴らしさは、ピチピチと音をたててはねかえすような、新鮮な心の動きと、その感情表現の見事さにあると思えます。まず、何よりも自然で素直なのです。彼女はめざめ、泳ぎ、そして散歩する間に、その全身で自分自身を一ぱいに表現します。レモン色の自転車に乗ってさっそうと街をゆく彼女に、ふとすれ違った人が、思わずふりかえってみとれるような魅力。……どんなすばらしい芸術作品よりも、彼女がそこにそうして生きていること、それが人々に喜びと感動を生み出すとしたら……、よっぽどその方が貴いといえないでしょうか。グェンダリーナはきっと、そのような少女なのです。 鮮やかな明るいイタリアの空の下には、グェンダリーナのようなみごとな少女が青春を謳歌しているそうです。そして、私たちの住むこの国にも、今たくさんのグェンダリーナが生れ息づいていることでしょう。 いままで私たちの国には男の子と女の子との間に、ごく自然で素朴な感情の表現が見られなかったといわれています。この物語の主人公たちのように、私たちも健康で素直な心と新鮮な表現を、日常生活の間に持ちたいものだと思います。
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